とある年の瀬の深夜2時すぎ、私は悔しいのか悲しいのかわからない涙をこらえながら、手当たり次第にキャリーバッグの中に荷物を詰めていました。
- はじめに
- 離婚へのカウントダウンが始まったのは「元夫の事実上の解雇」から
- モラハラ被害の標的が私から拡大していくことへの不安
- 失敗は許されない!元夫がいる自宅から脱出を試みる
- 元夫の報復を恐れ警察署へ相談に行く
- さいごに
はじめに
これは実際にあった話です。今現在は「ひとり親世帯の母」として生きている私ですが、当時は既婚者であり、
- 元夫
- 私
- 長女(当時6歳)
- 長男(当時1歳)
の4人で築50年越えの2DK(38㎡)の賃貸物件で生活していました。
決して広くない賃貸住宅での生活は、物理的な窮屈さだけではなく、モラハラ元夫による精神的な窮屈さも加算されたものであり、それはそれは「人としての生活」と呼んでよいものだったのかすら疑問に思うくらいのものでした。
離婚へのカウントダウンが始まったのは「元夫の事実上の解雇」から
結婚当初元夫は仕事人間であり、常に仕事のことを考えているくらいまじめに仕事をこなしていました。当時は、きっと楽しく仕事をしていたのだと思います。
しかし、2012年のリーマンショック以降、元夫の職場でも「業務の縮小」を余儀なくされ、小さな事業所は軒並み閉鎖することになりました。
元夫が所属する事業所も業務縮小の対象となり、当時正社員だった元夫には3つの選択が与えられたのです。
- 隣県にある本社へ通いで勤務する(電車で片道2時間以上)
- 本社の近くに引っ越して本社勤務する(引っ越し代は一部会社負担)
- 退職する
元夫には2時間以上かけて通勤する度胸はありませんでしたし、かと言って引っ越しするような貯蓄もないため、この時は「退職する」という選択肢しか残されていなかったのです。
元夫本人は、会社のために身を粉にして仕事を行ってきた(と本人は思っている)自分がほぼ退職を迫られる選択肢の中から選ばざるを得ない状況(事実上の解雇)には、納得がいかず、しかもその怒りを消化もできなかったこともあってか、これ以降元夫は、無職であることが多くなったのです。
(短期の派遣の仕事をしていたこともあったので、完全無職ではありませんでした。)
モラハラ元夫は勝手に仕事を辞めるが職探しは難航する - トリプルLIFE
楽な生活を手にした元夫は勤め先も探すことがなくなりなぜか荒れ始める
仕事を退職してから半年以上は「失業給付」を受けることができていました。しかし元夫は、働かずしてお金を受け取ることができることに 次第に「楽を覚えてしまった」のです。
はじめのうちこそ、次の就職先を探すそぶりを見せていたのですが、1か月と経たずして求人誌すら持って帰ってくることも無くなってしまいました。
それでも職安には行っていないと「再就職の意思なし」と判断され、失業給付が受けられなくなるので、職安には行ってはいました。(ただし行くだけです)
自宅で過ごすことが多くなった元夫は、次第に昼間から飲酒をするようになり、私に対して小言や暴言が多くなり、時には手も出してくるようになりました。
(もともと、飲むと気が大きくなる性格でした。)
よくよく考えると結婚前から、そういったモラハラ気質があった元夫でしたが、この時は元夫自身の失業(会社側から排除された)を気にしてなのか、さらにひどいDV・モラハラを行うようになったことは確かでした。
元夫のモラハラの一例
- 全て元夫の意見が正しいと譲らない。私の意見は全て間違いであるということが基本姿勢。
- 私を貶める発言は日常茶飯事。常に下に見ている。
- 自分が馬鹿にされたと感じると、とことんまで(私が泣いて謝り倒すまで)質問攻めにしてくる。
- 説教が好きである。(オールナイトで説教してくる。)
- 話すより先に手が出ることも珍しくない。
- 自分以外の人は「頭が悪い」と思っている。(常にそう言っている)
- お金に異常な執着があり、私の給料もすべて管理したがる。(拒否すると手が出るため、私には拒否権がない。)
- 金銭感覚がおかしい。(常に督促状であふれている。)
- ナルシストである。(自分はモテる・自分には優れた才能があるなど。)
上記のものはまだまだ一部にすぎません。
私は毎日のように元夫に怯え、機嫌をうかがう生活をしていたのです。
モラハラ被害の標的が私から拡大していくことへの不安
モラハラ被害を受けている当時、
- 私さえ我慢していれば…
- 夫もずっと怒っているわけではないから、今をやり過ごせば…
- 明日になればまた機嫌が直るかも…
など、「自分が我慢すること」でモラハラをやり過ごせると思っていました。
それに、ヘタに反抗的な態度をしてしまっては「更に当たりがきつくなる」とさえ思っていましたので、私はひたすら我慢を続けていたのです。
そう、あの日までは…。
元夫の矛先はついに子どもにまで…
元夫はあろうことか当時6歳の長女に手を出そうとしたのです。
もちろん、私に対する脅しと自分の強さを見せつけるためのポーズだったのでしょうが、本気でもフリでも関係ありません。子どもに手を出そうとすることが私にとっては「絶対にしてはいけないことであり、許されないこと」だったのです。
とある日の夜中に、酔っぱらった元夫が些細なこと(何が原因だったかも覚えていません)で怒り狂っていました。この日は、私もすでに何度か痛い思いをしていました。
そして私に手をあげただけでは怒りが収まらなかった元夫は、子どもが寝ている布団に向けてライターの火を近づけたのです。
私はとっさに元夫の手を叩きつけてライターを落とし、「なにやっているの!!」と怒鳴りつけたのです。
普段一切抵抗しない私が、元夫に反抗したことが気に食わなかった元夫は、私に対して鬼の形相で叩きつけてきました…。何度も何度も。
…15分ほどが経ったでしょうか。
さすがに元夫も疲れたのでしょう。私と子どもがいる部屋から出て、自分の母親にこの出来事を電話口で話しているようでした。(自分は悪くないとでも言っていたのでしょうか?)
この時、私の中でとある「決意」が固まったのです。
荷造り
この日は、ある年の瀬の深夜2時過ぎでした。
元夫の動きが静かになった(眠った?)ところで、私は押し入れの引き戸に手をかけました。
そこにはあらかじめ用意してあったキャリーバッグがあり、ある程度の荷物が詰められた状態になっていました。
そうです。いつでも自宅から脱出できるように用意してあった「家出グッズ」です。
このバッグにはある程度の服は入っているのですが、それに加えて、思いつく限りの貴重品をはじめとする必要な荷物を詰めることにしました。
- 財布
- 携帯電話
- へその緒
- 長男のおむつ・おしりふき
- 母子手帳
- 銀行の通帳・キャッシュカード…
とにかく思いつく限りのものを押し込んだのです。
私には2人の子がおり、当時長女6歳、長男1歳でした。
2人の幼子を連れて元夫に気づかれずにこっそりと家出をするにあたっては、できる限りコンパクトに荷物を運び出す必要があったのです。
荷造りが終わったのは午前3時ごろ。幼子を連れて自宅を出るのは、早くても夜明け以降であると思った私は、少しの間仮眠をとることにしました。もちろん、すぐに出ることができるように洋服を着た状態で…。
失敗は許されない!元夫がいる自宅から脱出を試みる
約2時間の仮眠を終え、早朝5時を過ぎたころ、私は家出を行うために元夫の様子をうかがうことにしました。
元夫が眠っていればOK、起きていたらOUT、一か八かの賭けでした。
自室で元夫の部屋の物音を探ってみた限りは「静か」でした。
ですが、基本的に眠りが浅い人でしたので、ちょっとした物音(鍵を開ける音だけでも)で起こしてしまうこともあります。慎重に様子をうかがいます。
外が明るくなり始めた午前6時を回ったころ、トイレに行くふりをして元夫の様子を見ると…。この時元夫は運よくまだ眠っていたのです。
いざ決行自宅からの脱出時は要注意!とにかく元夫を起こさないことに注意を払う
はじめに静かに長女を起こし、パジャマから洋服に着替えさせました。
そして静かにトイレに行くように促し、そのまま静かに玄関から外に出るように指示しました。
その間に私は眠ったままの長男を抱っこ紐で自分に括り付け、荷物を持って先に外に出た長女を追って玄関を突破したのです。
しかし、外に出たからと言ってまだ安心できません。
元夫が追ってきたら、たちまち連れ戻されてしまうことは目に見えています。
ですので、長女には
「あそこの角までは走って!!」
と言い、自宅から死角になる初めの曲がり角まで長女と共に走ったのです。
自宅から死角になる曲がり角までたどり着いたときに初めて、「やっと元夫から脱出したんだ」と実感できたのです。
自宅から脱出した後
まだ早朝ということもあったので、ひとまずは近くのファストフード店に入店し、長女に少し早い朝食をとらせながら時間をつぶすことにしました。
しかし入店してから30分と経たないうちに、とある人物からの着信があったのです。
元夫の母親からの着信
電話の主は義母でした。真夜中に息子から電話があったことで、私たちのことを心配しての連絡だったのです。元夫は、真夜中の電話で以下のように母親に伝えていたそうです。
- 嫁に手をあげることが止められないこと
- しかし、俺の言うことを聞かない嫁も悪い
- 俺は間違ったことをしていない
- 俺のことを(お母さんに)肯定してほしい
なんとまあ、自分の保身のための言い訳に過ぎないことでした。
しかし義母は、
- どんな理由があっても手をあげることは悪いこと
- 奥さんときちんと話し合ったのか?一方的に攻め立ててないか?
- 今度お父さん(義父)も交えて話し合いをしよう。
と元夫の言うことを鵜吞みにはしなかったのです。
そう話したうえで、私と子どもたちに義実家に来るように言ってくれました。
もちろん元夫が義実家に来ることも想像できましたが、義父母が責任を持って私たち3人を守ってくれると約束してくれたので、私たちはご厚意に甘えることにしたのです。
元夫の報復を恐れ警察署へ相談に行く
元夫不在の中、義実家で義両親と私が話し合った結果、警察へ元夫の暴力行為について相談に行くという話にまとまりました。このまま、義実家に居てもいつ元夫が現れてしまうかわからないし、ややこしい事態になることを避けるためにも、警察の人に間に入ってもらう方が良いのではないかという判断となりました。
嫁+(元)夫の両親+子どもたち
という不思議な組み合わせで相談に行ったことにインパクトがあったのか、警察署の人はかなり親身に話を聞いてくれました。
(こういった件では、嫁(被害者)+(被害者の)両親で相談にくる場合が多い)
警察署で3択からの決断
元々相談するだけのつもりだったのですが、一通りの話を聞いた後、警察官は深刻な表情になり、「夫に対してどのような対処を求めるか?」と聞いてきました。
- 本日の相談記録を警察署に保管し、帰宅する。(後日何かあった時、その記録をもとに対応してもらうことができる。)
- 夫に対して、警察署から書面で警告文的なものを送る。(だからと言って罰則等があるわけではない)
- 被害届を出す。(逮捕状作成などをおこなった後、夫を警察署で拘束することができる)
対処としては、↑の3つであると告げられました。
1の帰宅は「あり得ない」 2の警告文は「火に油」 実質3しか選択肢はない…
ということで、義両親と相談のうえ、被害届を出すことに決めました。被害届を出した場合、以下の流れになるとのこと。この時はちょうど年末だったということもあり、シェルターとの橋渡しをおこなってくれる市役所が休業日だったので、少し特殊な動きすることになりました。
- 被害届を出す。
- 元夫が拘束される(10日間)
- 元夫が警察署にいる間に、私と子どもたちは、本格的な荷造りをして自宅を出る準備をする。
- 年明け直ぐ市役所でシェルターまたは支援してもらえる施設の手続きを行う。
- 引っ越し
さいごに
シェルター(婦人保護施設)に入所してからは、久々に夜間ゆっくり眠ることができる喜びに浸り、忙しかった年末年始の疲れをいやす期間となったのでした。
シェルター生活2週間後には、県外の母子生活支援施設の入所も決まり、新たな土地での再出発を果たし、現在に至ります。
今現在は親子3人で裕福ではありませんが、安心して暮らすことができていますし、常に笑いが絶えない家族にもなりました。
当時6歳だった長女も高校生になり、大好きな音楽(吹奏楽)と共に高校生生活を送っています。
1歳だった長男も、難なく小学校生活を楽しんでいるようです。特に水泳の授業が大好きで積極的に泳ぎの練習をする姿も見られます。
私は、人とは異なった経験をしたことがこのブログのネタになっており、執筆活動が充実したものとなっています(笑)
私たち家族の「今」があるのは「離婚を前提に家を出た」おかげなのかもしれません。
- 義両親
- 警察官
- シェルター職員
- 市役所職員
- 母子生活支援施設の職員
様々な人に助けてもらって、私たちは今幸せに暮らすことができています。