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親から子へのモラハラ加害は虐待と変わらないという事実を知ってほしい

モラハラの実態

「私の親はモラハラ加害者でした」という人は、そんなに多くは無いと思います。

一般的には、親は子どもに対して危害を加えはしない、むしろ危険から子どもを守ってくれる存在であることの方がはるかに多いからです。

でも、私の親は「モラハラ加害者」でした。子どもを心配するあまり、子どもの人生を操縦するほどの過保護な「毒親」ともまた違う、子どもに対して何の愛情も無く、ただただ無意味な八つ当たり・的を射ない暴言・子どもの奴隷化がモラハラのそれに感じました。

産みの母と父の離婚

両親は、私が幼いころに離婚しており、私は父親に引き取られました。その後、父から母親の話は一切聞くこともなく(暗黙の了解で聞くなという雰囲気でした)私自身、産みの母親のことは全く記憶にはありません。

私の記憶に残っている最も古い記憶は、おそらく3~4歳くらいの頃、すでに母親はいなく、父と祖母の3人、借家で過ごしていたころのことです。いや、正確にいえば私は父と二人で暮らしていたのではないかと思います。そこに祖母がほぼ泊まり込みのように私のお世話と家事をしに来てくれていたのだと思います。

実際に祖母が所有する家(父からすると実家)は別の場所にあり、のちにそちらに引っ越しをしたからです。

父がモラハラ継母と再婚

借家から引っ越しし、私が小学生上がって生活が落ち着いたころに父は再婚しました。

再婚相手は、私とは少し年の離れた姉妹くらいの年齢差しかない若い女性でした。しかし、この人こそが後に私を苦しめることになる、モラハラ母(以下継母)となります。

自身の感情で怒鳴る継母

父と結婚して「いきなり一児の母となった」継母は、子どもである私には自身の感情で怒ります。叱るとか、注意するとか言うものではありません。自分の気に入らないことがあると、制御がきかないのか怒りが収まるまで数時間にわたって、お説教が始まるのです。
モラハラ加害者の決まり事と恐怖のお説教

その間、私は座ることも許されず立ったままで数時間以上に及ぶお説教を聞かされます。お説教は、同じことを延々と話すこともあります。1回のお説教につき、3回も4回も同じ話を聞かされます。

恐怖のお説教

お説教に対しては、

  • 話(説教内容)を理解したのか?(何をどう理解したのか継母の納得いくまで説明を求められます)
  • 自分(私)のどこが悪いのか口頭で説明をしろ(継母の納得がいくまで何回も)
  • 謝罪をしろ(継母の納得する謝罪でない限り永遠と謝罪し続けることになります)
  • 継母のことを馬鹿にしているのか否かを言葉で伝えろ(継母は自分が私に馬鹿にされていると思い込んでいたようです)

などを私に言わせ、継母が納得するまで説明を求められます。しかし、そこは語彙力に欠ける小学生。ただでさえ、大人が納得いく模範解答なんてできるはずもなく、加えて継母に対しての恐怖心もあったため、私は次第に言葉を発することもできなくなってしまいました。

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暴力もあり

様々なものを私めがけて投げつけることも日常でした。

包丁・扇風機・分厚い辞書…どれも当たり所が悪いと大事になってしまうものばかりです。おそらくですが、あえてそういうものを選んでいたのだと思います。

冬場に頭から冷えたお茶をかけられたこともありました。地味に、受けるダメージが大きいです。冷たいですし、寒いですからね…。

ですが、熱湯をかけるようなことはしませんでした。なぜなら、目に見えるやけどを負ってしまうからです。やけどをしてしまうと、周りから『虐待』を疑われてしまうからです。

見えないように…周りに気づかれないように実行する…そのあたりがモラハラ気質であり、実際に継母はそういう人でした。

父はモラハラ継母の本性を知らない

そんな継母も、やはり周囲の目が気にはなるようで、父が在宅しているときは、暴言や暴力、私に対する長時間のお説教などをしたことがありませんでした。

父が在宅しているときも、継母は何かしらで怒っているときはありましたが、目に見える暴力をふるうことはなく、父に知られないように私を睨みつけながら無視する程度だったのです。いわゆる精神的暴力という形で私に圧をかけてはいました。

基本的に父が在宅の時はおおとなしくしている継母も、不機嫌さは隠す気が無いため(怒ってますアピールもモラハラ人の特徴です)、継母の不機嫌さはさすがに父も察知できるようで、継母と私の間の雰囲気が良くないとき父が決まって、

「お母さんに謝りなさい。」と私にいうのでした。

見えないところで何があったのかを知らない父に一方的に私が悪いと決めつけられ、「謝れ」と言われることも、私にとってはつらかったです。本当は、しっかり私の言い分も聞いて寄り添ってほしかったです。

でもそれは叶わない願いでした。父は常に継母の味方だったからです。

祖母もモラハラ被害者

当時同居していた祖母は私には優しかったのですが、強く物事を言う性格ではなかったので、その優しさにつけ込んだ継母からの攻撃対象となってしまいました。

継母から祖母に対しては、身体的な暴力こそはなかったのですが、父不在時のはっきりとした嫌がらせや、ねちねち言う嫌味、怒鳴り散らしたり、暴言はひどいものでした。

  • 「少なくて良い」という祖母の食事の量をわざと多くしたり、脂っこいものばかりにし、残すと怒鳴る(当時祖母は60歳を超えていましたので、かなりきつそうでした)
  • 「のろま」「あっち行け」など暴言を吐く
  • 睨みつける
  • 祖母がお風呂に入ることに対してなぜか嫌悪感を抱く(遠慮して入らなくても嫌悪感丸出し)
  • 生活費をすべて祖母に出させる

私の記憶の中には、祖母に優しく接している継母の姿は全くありませんでした。

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実家に居ながら「居候状態な私」と「モラハラ継母」と「お花畑な父」

  • 自分の奥さんにべったりな父
  • 私(と祖母)以外には良い顔をする継母
  • 継母から生まれた子どもたち(私にとっては一応兄弟)

このメンバーでの暮らしは、苦痛以外の何ものでもありませんでした。

戸籍上では一応家族ですが、私は完全に居候状態…。住まわせてもらっている身として継母からは、食事も一緒に取ることも許されない空気を作られました。

継母は口では決して「ご飯を一緒に食べたくない」とは言いませんでしたが、私が食卓に着くとあからさまに嫌な顔をしていたのです。終始睨みつけられ、ものの3分足らずで「まだ食べているのか」と怒鳴られ、しまいにはよほど一緒に食べたくなかったのか、私の食事は食卓に用意されることもなくなりました。

父は夕飯の時間には自宅にいないことが多く、継母から受けている仕打ちのことなんて知りません。それどころか、私が夕食をもらっていない事すら知りません。

たまたま父が夕飯の時間に在宅していて、私が食卓にいないことがあっても、

「ちゃんとみんなと一緒にご飯を食べろよ~。」

とのんきなことを言っていました。用意もされていないご飯をどうやって食べろっていうんでしょうか…多分継母から都合よく言いくるめられていたのだと思います。

この当時の私の栄養源は学校の給食からがほとんどであり、1日1食+自宅にある残り物ごはん でしのいでいました。

実家を出るきっかけとなった交通事故

その後、就職をしてから通勤時に事故にあってけがをしまったのですが、相手が有責であったため、まとまった慰謝料がいただけました。

それを機に大嫌いな実家から半ば強引に自立をし、やっと私に自由が訪れたのです。継母は最後に「慰謝料は全部お前のものにするつもりか!」と怒鳴りつけてきましたが、実際にけがをしたのは私だし、事故の件に関しては実家には何一つ迷惑をかけていないですので、無視することに決めました。

自分で生活することは金銭的にも大変でしたが、ようやく自分の居場所を作ることができたのです。もちろん食事もきちんととることができましたし、何もおびえるものがないという快適な空間が手に入ったのです。

…数年後、再びモラハラ加害者(元夫)に捕まってしまうのですが…。

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私の子ども時代は「家庭内のいざこざ」程度だが今では「虐待」と言っても過言ではない

私の子ども時代は、今現在であれば「虐待」扱いされそうなことが日常的におこなわれていました。ですが当時は、世間はそれほど児童福祉に対しての関心はなかったように感じます。実際に家に帰りづらく、夜中まで中学校の制服姿で外で一人座っているところを警察に保護されたこともあったのですが、大した聞き取りもしないままに自宅に帰されたのです。

普通に考えて、真夜中に中学生が一人で外にいること自体がおかしいですよね。

警察の人も大人ならば「自宅に帰ることのできない事情がある」ことくらい想像できたと思うのです。ところが当時はあっさりと自宅に帰したのです。私にとっては、暴力暴言が常となっている実家へです。命の危険もあるくらいの場所だったのですが…。

このころは私にとってはまさに暗黒時代でしたが、生きることはあきらめなくて本当によかったなと思いました。

さいごに

子どものためを思って「叱る」のと、感情のままに「怒る」のは、子どもでも違いに分かることです。

相手の意見も聞かずに、自分の意見ばかりを言い続け、怒りに任せて怒鳴りつけたり、暴力をふるったり、そして、何時間も相手を立たせてこんこんとお説教をするのも、後に結婚をしたモラハラ元夫と全く同じ行動パターンだったのです。

そして怒りの沸点の低さも共通しています。「え?そんなことで怒るの?」というようなことで半日以上は怒りが沸点を超えています。そして、何年たってもそのことを蒸し返してきます。モラハラ加害者は、その繰り返しなのです。正直、疲れますね。

今回は、私の幼少期に起きた「モラハラ」の話でした。昭和から平成初期にかけてのことなので、今では考えられないことばかりですが、実際にあった本当の話です。

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