娘が中学3年、いわゆる受験生になった令和4年度。
私は親として純粋に「娘には好きなことをさせてあげたいし、将来についても真剣に相談に乗ってあげたい。」と考えています。
というのも、私自身が好きなこともできず、夢見た職業を目指すことも許されず、将来についても相談に乗ってもらうことができない環境だったからです。
事実子どものころ、やりたい仕事や、なりたい職業がなかったわけではありませんでした。
私の家庭環境
私は生みの母を知りません。
物心がついたときは父と祖母と私の3人で生活をしていました。父も祖母も仕事を持っていたため、私は保育園に通っていました。
寂しくないと言えばうそになりますが、母がいない中でも毎日祖母に甘えさせてもらっていたため、私はそれなりに幸せに過ごしていたと思います。
しかしそんな平穏な日々の中で、当時まだ若かった父は「彼女」を作りました。これがのちの継母です。
継母は私がまだ年少くらいの時に同居を始めました。同居の理由や、詳しい経緯は私には知らされませんでした。子どもの私からすると「突然知らないお姉さん(若いです)が家に住み始めた!しかも誰?」という状態でした。
私自身は祖母に預けられていたことが多く、元々父と遊んだ記憶もほとんどなかったのですが、「知らないお姉さん」が同居を始めてからはさらに父との距離が遠くなってしまったことははっきりとしました。1日父の顔を見ない日も珍しくはなかったです。
そんなこんなで月日が過ぎ、父とよそのお姉さんは突如結婚をすることになり、私には「継母」が誕生したのです(笑)(子どもの私には何も知らされませんでした 笑)
父の結婚相手の「継母」は典型的なモラハラ気質
私が保育園児の頃はそれなりに遊んでくれていた「継母」でしたが、遊び方ひとつとっても、今思えばモラハラっぽさが見え隠れしていました。
- ボードゲーム(オセロなど)保育園児相手に本気で行う(なかなか勝たせてはくれない・子どものために負けることはしない)
- 対戦ゲームで私が勝っても、「わざと負けてやったから。」と上から目線。
- 子どもの言い訳を聞く耳持たない(話を聞かない)
- 子ども<父 が大切らしく、父とよくお出かけする
など、保育園児相手にずいぶんと大人げないように感じる骨導も多かったのですが、それでもこの頃は暴力や暴言などはなく、「話ずらい人」くらいな感覚でした。
しかし、私が小学校以降の年齢になると次第にモラハラっぷりに拍車がかかり、この頃になると暴力・暴言は日常的なものとなっていました。
- 私のことは必ず道具(ものさしや扇風機など)を使用して痛めつけてくる
- 学校のことに興味がなく、特に集金ものに嫌な顔をする
- 「根暗」「陰険」「性悪」など、私を否定する言葉が日常
- 「私はあんたが嫌いだからこの家を出ていく」が口癖(でも出ていったことは無い 笑)
- 父の前では暴力・暴言をしない
- 「あんた(私)は母親から捨てられた子」と平然と言う
書き出すときりはありませんが…💦
これだけでも母親としては問題大有りということはおわかりではないかと思います。
幼少期からこのような継母と暮らしていた私は次第に自己肯定感を失い、「私は必要のない子・かわいくない子」と自分自身を否定するようになっていったのです。
それを顕著に感じたのは中学3年生。
自身の娘と同じころのことだったのです。
私には将来の選択肢が2つしか与えられなかった
今から20年以上も前の話ですが、それでも当時「中学卒業してすぐ就職する子」はいませんでした。多くの子が全日制の高等学校への進学を希望し、実際に通うことになったのです。
ですが、私の場合は違ったのです。
「就職」か「就職+定時制高校」のどちらかでした。
決して成績が悪かったわけでもありません。むしろ「市内上位3番以内の学校も狙える」と担任から言われていたくらいでした。
しかし私は全日制の高等学校への進学は許されませんでした。
両親が私に対してお金を出したがらなかったからです。
当時の担任は私が「進学しない」と聞いて家庭訪問までしてくれました。
しかし継母は「働いてもらう」の一点張り。子ども<継母 が大切である父も全く子どものことを真剣にに考えてくれようとはしなく、高校進学の選択肢はなかったように思います。
高校進学費用を出したくない…ということもあったのでしょうが、父に至っては「衣食住には困らないから自衛隊に入れ」とわけのわからないことを言い出す始末。そして、実際に試験を受けに行かされました。(私は喘息持ちです)
自衛隊の試験自体には(本気の志願者には申し訳ないのですが)合格するつもりは全くなく、筆記試験はほぼ白紙、身体能力検査は、適当に流れ作業のごとく受けていたので私の記憶にはほとんどありません。
それどころか、実の親が子供の将来について真剣に考えてくれなかったことのショックの方が大きすぎて「何を信じればよいのか?誰を信じればよいのか?」と人間不信に陥ったのです。
もちろん、自衛隊試験に落ちた私は、仕事をしながら夜間の高校に行くことを決めました。(もうそれしか選択肢がなかったのです。)
そんなこともあり、私は働きながら夜学に行くことになったのです。制服こそ父が購入してくれたものの、その後の学費は私が全て負担しました。ですが、月1万もかからなかったので、支払いは何とかなったのです。
継母が中卒であることが原因だったかもしれない
継母は中学校卒業後すぐにわが家で同居を始めました。アルバイトをしてはいましたが勉強をしていた様子はなく、最終学歴は「中卒」です。
中卒そのものは決して悪いことではありませんし、社会でもしっかり頑張っている人も多いと思います。最終学歴そのものは問題ではありません。
問題は継母の性格であり、性格上「私より高学歴になることが許せない」と感じたのだと思います。
当時は気がつきませんでしたが、継母の言葉の端々に私自身が大人になってから感じた「モラハラ感」があったのです。
- 私(継母)も中学を出て働き始めたのだから、お前(私)も甘えるな
- お前(私)なんかにかけてやる金はないから私(継母)のように自立しろ
- 今まで(私に)かかったお金を返してもらわないとだから~
今になって思えば、高校へ行くことが甘えではないことも、中学卒業してすぐに父に頼って生活していた継母が真の自立者でないことも、子どもを育てることにかかったお金を返せということがいかにおかしいことかもわかるのですが、当時子どもだった私は「大人がすべて正しい」と思い込んでおり、「自分のなりたいもの」「自分の将来」を主張することができなかったのです。
私にも「なりたい職業」や「夢」はあった
そんな私は子どもの頃、保育士または幼稚園教諭になることが夢でした。自分なりにどのように勉強したらなれるのか?どんな学校に進学したらより良い勉強ができるのか?を考えていたのですが、「高校進学が許されない」中、夢ははかなく消えていってしまいました。
いや、社会人になってから必死で勉強して保育士試験を受け、保育士になっている人もたくさんいます。
それでも精いっぱい夢に近づいたつもり
私も頑張れば、今からでも保育士になることができる可能性は0ではないですが、ひとり親として生活している今現在ではそれは限りなく0に近いです。日々の生活があるため、今の仕事を辞めるわけもいきませんし、これから短大卒の資格を取るほどの金銭的、時間的余裕もありません。
それでも社会人になってから調理師の資格を取得し、飲食店や食品会社の勤務を経て保育園に入職し、立場は「調理員」ですが「保育園職員」として勤務することができています。3割程度は夢がかなっているのかもしれませんね。
それに、「給食を作る仕事」は好きですから毎日を楽しく過ごしています。
娘には私と同じ思いをしないでほしい
これから自分の人生を考えていかなくてはならない娘には、私と同じ思いをしてほしくはないと思っています。
高校進学はもちろんその先の夢をしっかりと追って、将来「やりたい仕事」に就いてもらいたいと思っています。
わが家はひとり親家庭ですので金銭面などの不安もありますが、娘が決めた進路になるべく沿った形でサポートしてあげたいとは思っています。もちろん、進学するも就職するも娘の自由です。娘には「自分が何をやりたいと思っているのかを1番に考えなさい。」と言ってあります。
私のできることは、「娘に対して私の両親の考えをお手本にしないこと」なのです。
さいごに
話が散らかってしまったかもしれませんが、今回私が書きたかったことは、
ということです。
もちろん、子どもにすべてを決定させることもできませんが、子どもが大人になってから困らないようにその準備を手助けしてあげるのは親の役目ではないかと思っています。私は自身の親のように子どもの将来をつぶしてしまうことだけは無いように、受験生としての娘を見守っていきたいと思います。
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